自分は結構歴史好きなので、過去に井沢氏の『逆説の日本史』を読んだこともありますが、それも今は昔、、、。
ただの歴史知識の集積に留まらず、現代日本の価値観の原点などに迫る考察もあったり、次の日から話したくなる情報が盛り込まれていたため、印象に残っています。
本書はその執筆で体得した極意を惜しげもなく披露してくれるとのこと。
楽しみです。
日本史の中の宗教観
従来の日本史観の中では「宗教」が無視されています。
現代日本人にとってどうしても遠い存在と感じてしまうこの概念ではあるのだが、そのために、日本史の中で起こった出来事を理由付けて説明できていないことが多々ある、というのが本書のスタート地点です。
日本人は古代から現代に至るまで「ケガレ忌避信仰」、「怨霊信仰」、「言霊信仰」という3つの信仰に縛られて生きているといいます。
ケガレ忌避信仰
ケガレとは信仰上の不浄のことを言うもので、日本神話上は「死=ケガレ」と考えている。
飛鳥時代以前は天皇一代限りで遷都していたが、これは天皇が亡くなると今の都がケガレてしまったという宗教観によるもの。これは今までの宗教を無視した歴史観では説明がつかないものと筆者は言います。
また、防衛や警察を担当していた兵部省・刑部省が実質機能していなかったと言うのも、それらが死穢や罪穢といったケガレに触れるため、敬遠されていたため。
そうしたケガレ忌避信仰が、歴史の動きを生み出し、ケガレを引き受ける武士の登場に繋がったと説明されています。
怨霊信仰
聖徳太子の十七条の憲法の中で、第一にうたわれる「和」の精神。
これは「話し合い第一主義」を説いており、この価値観は現代日本でも受け継がれています。日本にしかない稟議書という概念はその典型です。そのため、日本では中々強烈なリーダーシップを持った人が出てこないと揶揄されますが。
さて、ではなぜ「和」を大切にするのか?
それは、みんなが納得しない形にすると、怨念を抱かれ、怨霊になってしまうと信じられていたためであると述べられています。
六歌仙へのノミネートや源氏物語が鎮魂の意味をもって行われていたというには中々に意外でした。
「徳」の字をつけることでの天皇への鎮魂を図ったことは知っていましたが。歴史好きとして一応面目躍如。
言霊信仰
起こってほしくないことは忌語として書くことを避ける。
これは書いてしまうことで、その事象が顕在化してしまうことを怖れてのこと、これを筆者は言霊信仰と呼んでいます。
前述の信仰の中で、これが一番イメージが湧きやすいのではないかなぁと思います。
結婚式のスピーチのタブーなんかはそうですし、マスコミの報道の奥歯に物が挟まったような表現もそれに該当するかと。
朱子学=宗教?
最後に、信仰とは別題となりますが、現代を読み解く上で参考になりそうなので。
筆者は朱子学を儒教を過激化したものと表現し、その実宗教であると主張しています。
儒教は人の道を説く哲学であり、神や超常現象は登場しないものなのですが、その独自の価値観から合理性・論理性が当てはまらないのではないかというのがその理由です。
その独自の価値観とは、子が親に尽くす「孝」をあらゆる道徳の基本として優先すること、つまり先代が決めたルールは変えられないという、現代日本人からすれば少し極端と思いがちなルールのことです。
朱子学は日本にも持ち込まれましたが、日本は「忠」の意識と「孝」の意識を並列させる独自の発展を遂げることで、「孝」に行き過ぎることはありませんでしたが、大陸国では、まだその価値観は根強いと言います。
従軍慰安婦の問題も、このルールを取り下げない価値観がある以上、謝罪要求は絶えることなく、この問題の解決は難しいと述べられています。
日本史ということで、自分のテーマに引き寄せられたため、今回はブログを書く手が進みました。
宗教という点で日本史を読み解くだけにとどまらず、現代日本人の価値観の源泉もあぶり出され、私も色々と発見することが多かったです。
日本史を読み解く上での新たな視点を提供してくれるという意味では、井沢氏の著書は新鮮だと思います。ただ覚える歴史から一歩踏み出してウンチクを語りたい方は是非。
(なお、大学で勉強したときは、あんまり勧められませんでした、、、理由は本書の中でご本人も述べられています)