こんばんは〜。
今日は文化の日でしたね〜。
ところで、この休日、欧米からの持ち込みでなく、日本特有のものなのです。
経緯を遡るとGHQの時代に行き着くのですが、ここでは省略します。
祝日は国民性が出ますよね〜。
ということで、世界の特徴的な祝日を調べてみました。
エントリーNo1 ボクシングデー@イギリスなど
定番ですが、まずはこちらを。
ボクシングはクリスマス翌日に箱(box)を開けることを指します。
宗教的な背景を説明しても無視されそうなので、この時期にガッツ石松を解き放つのは危険。
エントリーNo2 ニュピの日@インドネシア
バリ島の祝日で3-4月に行われます(太陰暦基準のため毎年変わる)。
街から人が消えます。
「静寂の日」とも呼ばれる日で、外出・労働・灯火使用・殺生が禁止され、外出には逮捕のペナルティも。
出不精な私にとって何と羨ましい不便そうですが、そんな日は家のこたつでゴロゴロしましょう。
エントリーNo3 メロンの日@トルクメニスタン
まさか本当にあるとは…。
トルクメニスタンの独裁者がメロン好きだから創設された祝日だそうです。
(諸説あり)
それが許されるなら、私は「もずく」が好きなので、もずくの日とか作ってもらえませんかね?
(追記 実在するらしいです。7月4日 アメリカ独立記念日と同じです!)
さて、本日はこの本。
『レプリカたちの夜』が面白かったので、
もう1冊行ってみようと思い、手に取りました。
(悩みましたが、リスがしゃべるのでSFに分類しました)
まとめると…
- シュールなストーリー展開は相変わらず。そこに社会風刺をミックス。
- 間抜けな人物設定だが、既存の自我同一性から脱却できない哀れみを表現?
- 異質さの非寛容が、差別や争いを招いていませんか?
あらすじ
わたしはとっておきのエリートスパイ。だが、暗殺相手の市長と友達になってしまい……。おかしみと音楽に溢れた新世代ユーモア小説。奇妙奇天烈、摩訶不思議。一度ハマれば抜け出せない、ユーモア・ニューワールドへようこそ! わたしはニホーン国のエリートスパイ。だが、どこでしくじったのだろう。市長を暗殺しにこの街へやってきたのに、そのかれと友だちになってしまった……。キリストを名乗る突然の来訪者、年寄りの賢いロバ、泥棒稼業を営む隣家のマダムに、巨大化したリス。妙ちきりんで癖になる人(動)物たちが次々に織り成す、一大狂騒曲。
間の抜けたキャラクターの哀愁
主人公である老齢スパイの『ルーキー』は、自分を職業意識の高いエリートスパイと思い込んでいますが、以下の点でポンコツです。
- スパイという隠密を問われる業種では、有名になることは二流の証だが、それを理解していない(無名こそ一流)。
- 日常生活を職業上のコードネームで過ごす(偽名使えよ)。
- ターゲットと心の底から友だちになり、一緒に中華料理を作る。
まぁタイトルからわかるのですが、実際、ルーキーは当て馬的な立ち位置で、組織から全く期待されていません。
滑稽と思いきや、実はこれって現実社会に「いない」と言い切れないと思います。
自分は期待されていないと深層では分かりながらも、その現実を直視できず、妄信的に一つの価値観にしがみつき、「自分の価値」を見出そうとする。
自分の存在を認められるため、奥底で不要と分かりながらも仕事を作ってしまうとか。
この執着心について、関連書籍として以下のリンク貼っておきます。
『名を刻む死』はルーキーと価値観の近い人物が登場します。
tommy-june.hatenadiary.com
滑稽さの中にある風刺
巨大リス(通称キョリス)が座席に座ってシートベルトしてたり、
スパイ任務のメッセンジャーの伝達方法が
「頭皮に指示が書いてあるので、髪の毛を刈り取れ」だったり、
どうにも滑稽なことが良く起きます。
われわれの生活から照らし合わせればあり得ない話ですが、
本作で起きる騒動は、ありていの価値観で物事を判断することが原因とも言えます。
物語の途中で、二ホーン人と外国人の二者の対立が起きるのですが、これも純血主義的な偏見(価値観)に端を発するもので、現実社会でも類似なことは起こりえるのではないでしょうか?
例えば、先の対立が起こってからある人物が発した言葉。
「いったよね。帰属意識はわざわいのもとだって。ほんと簡単な人たち。人種ぐらいしかすがるものがないとかレベル低すぎ。そんなもので寄り集まって壁を作るなんて芸がないよね」(p188)
二ホーン人と外人の二項対立的な価値観から抜け出せない。そんな価値観の凝り固まりが悲劇を起こしてしまいます。
そういった価値観に扇動された人々を説得する言葉もあります。
(ちなみに言ったのはリス)
「~昔はみんなひとつだった。それが世界中に散らばっていろんな顔の人間になったんだ。環境に応じて多様化していったってわけさ。(中略)でもってまたみんなが交流したり対立したりしていっしょに混ざりあったんだよ。ぐるって一周してみんなおなじになったのさ。みんな混血の”雑種”になったってこと。つまりおれたちは雑種仲間なんだ。なあどうだいみんな。雑種同士なかよくやろうじゃねえか?」(p232)
これは人々に対し、この争いの意義に関する大きな問題提起をすることになります。
こんなの我々世界では「あり得ないだろ」というのは簡単ですが、
そこには異質性を無意識に排除しようとする「思考の放棄」があるかもしれません。
筆者が描きたかったのは、
「そういう異質さの非寛容が、差別や争いを招いていませんか?」
ということだとも解釈できそうです。
感想
相変わらずカオスでしたが、
今回の作品の方が『レプリカたちの夜』に比べてメッセージ性が強かったと思います。
その分、振り切れ具合は前作に比べて大人しくなっており、
世界観的には前作の方が好みではありました。
さて、前作を読んだときに、誰かに似てるんだよなぁと思ったのですが、
ようやくわかりました。
三崎亜記に似てるんですね。
どちらも現実社会と照らし合わせて起こりえないことを書いていますし、
テンションの低さが似ているような気がします。
ただ、アプローチの方法が違いますね。
元々公務員だった三崎亜記は、その経験を活かし、
官僚的な無機質なシステムを前提とした、あり得ない世界を作品内に構築し、
その世界の中でキャラクターを動かします。
いわば、設定ありきの作風。
一方の一條次郎は、滑稽無糖なキャラクターを好き放題に動かして、
それによってあり得ない世界を構築していく。キャラ立ち設定ですね。
設定厨の私は、前者の方が好きですが、
後者のアプローチは一層作品のカオス感が高まるので、これはこれで味があります。
オチを書こうと思ったら、既に3000字行ってしまったので、キリよくここで終了です。
(なんも思いつかなかった)
本日はここまでです。
お読みいただきありがとうございました。
ではまた明日~。