Tommyの乱読のススメ

ノンジャンル読書と雑記の混沌としたブログです。

【多様性に寛容に】限界の現代史/内藤正典

こんばんは~。

 

ちょっと用事があり、吉祥寺に寄ってきました。

 

そういえば、昔立ち寄った居酒屋がなかったかなぁと、近くをふらついたところ…。

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ありました!公式サイトは以下。

 

吉祥寺「遊麗(ユウレイ)」ゆうれい居酒屋

 

なつかしいですね。流行り廃れが激しいと思ったので、もうないかと思った。

時間の都合上寄れませんでしたが、あとで調べてみました。

 

怪奇1 独特の雰囲気

入店すると「ご臨終で~す」と死人も目覚めそうなとても明るい声をかけてくれます。

店員幽霊を呼ぶときは、「ちーん」とあの鈴を鳴らします。

あと、暗くて何食べてるかよく分からないです。

ブルーバイユーレストランより分からん…。

【公式】ブルーバイユー・レストラン|東京ディズニーランド|東京ディズニーリゾート

ただ、味は悪くなかったはず。

(10年前の記憶です)

 

怪奇2 クーポン券

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あぁ、確かに恐ろしいけど、

これって政治的な恐ろしさであって、怪談的な恐ろしさじゃないと思う…。

 

行く機会があればレビューします。

 

さて、本日はこの本。

以前宗教について触れたこともあったので、ちょっと掘り下げてみようと思います。

限界の現代史: イスラームが破壊する欺瞞の世界秩序 (集英社新書)

限界の現代史: イスラームが破壊する欺瞞の世界秩序 (集英社新書)

 

 

 

まとめると…

  • 啓蒙主義・国民国家・国際連合といった概念は限界にきている。
  • 現在の世界秩序は仮想敵を置くことで作られており、対立の火種となっている。
  • 今後はお互いのパラダイムの違いを認める「敵対的共存」が必要。

 

 

数々の限界

EUにおける多文化主義は、文化的な同化は求めないし、余計な干渉をしないことを掲げていますが、その実は、「お互いに対する無関心」を放置することでした。

そのため、他者を理解するには至らず、有事の際には自らの価値観を押し付けることにつながってしまう。9.11後のイスラム排斥運動などが例に上がります。

啓蒙主義の発展した西欧では、科学を先進的なもの、宗教を後進的なものとみなしがちで、パラダイムの違う相手に自身の価値観が普遍的だと押し付けがちです。

 

また、国民国家という枠組みは西欧諸国の持ちだした概念であり、イスラム世界とは馴染みません。

(イスラム世界では、主権は神、国境に本質的な意味を見出さず、国家への帰属という国民意識も希薄)

EUにおいても、領域国民国家の枠組みを変えるための試みであったのですが、根本では「誰が国民か」という問題意識を払しょくできておらず、そのかりそめの牙城は崩壊しつつあります。

 

最後に、第二次世界大戦後の秩序として設立された国際連合についても、

常任理事国の拒否権は、自国の損得を前提に置いた既得権益化しており、

国際秩序の安定といった機能は有名無実化しています。

 

現在の世界秩序の問題点

第一次世界大戦後の国際連盟、第二次世界大戦後の国際連合といった形で、世界秩序が形成されてきましたが、冷戦後の現在は、それに代わる世界秩序が形成されていないことが問題視されています。

現在の政権秩序は、前体制へのリベンジ・批判にとどまっており、仮想敵の存在を前提としています。

そのため、現在引き起こされている多くの対立は、互いにまじりあうことのない不寛容を源流としています。

 

ではどう解決するか?

筆者は、お互いのパラダイムの違いを認め、相手を力で征服することをやめる「敵対的共存」が必要と述べています。

現代の先進国が持つ価値観は、「内に平和、外には暴力」で一様な価値観の押し付けでした。

そうではなく、お互いの違いを包み込む「内含的なグローバリゼーション」が求められます。

 

感想

本書でも触れられているサミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』は大学生のときに読んで、

「なんだ、このノストラダムスは!」と驚愕した記憶があります。9.11以降の世界秩序がこの本のとおりになっていました。

ですが、あまりにもアメリカ文明至上主義的かつ文明の分類が杓子定規で、文化が混ざり合っているという前提を無視していないかなぁとスッキリせずに読んだものです。

 

ただ、今振り返れば恐ろしいのは、この単純化された世界秩序像が世界中で受け入れられてしまっているということです。

特に日本は宗教に無関心で、その傾向が強そうです(まさに多文化主義ですね!)。

イスラム像をつかもうとすると、単純化された構図で理解しようとするのは心情的には理解できます。

ただ、その理解はあまりにも極端な解釈が独り歩きすることが多いと思います。

そうではなく、表層的でない理解が必要になります。

昨今の中東の動乱は、一部の日本人ジャーナリストが巻き込まれることはありましたが、大多数の人にとって、画面の向こう側の出来事であり、対岸の火事でした。

ただし、これからの社会では、他人事ではなくなることも多いと思います。

多様な価値観に寛容になるということは、宗教的なバックグラウンドが希薄(と思っている)日本人こそ、身につけておくべき価値観だと思いますし、

実は文化的対立とは縁の薄い日本人には持ちやすい感覚ではないかなぁとも思います。

(この発想自体、日本人を一様に見ているじゃないか…と批判されそうですが…)

 

「えーこわーい」で思考停止するのではなく、そこから一歩踏み出そう。

 

本日はここまでです。

お読みいただきありがとうございました。

ではまた明日~。