こんばんは~。
今日は特にネタがないので、さくっと本題に行きます!
今日はこの本。
本ブログ名にある「乱読」は著者の『乱読のセレンディピティ (扶桑社文庫)』から取ったのですが、
どうも今作は、さらに一歩踏み込んだ内容らしい。
むむむ…これはブログ名変更の危機か?
※「乱読」・「乱談」入り混じって分かりづらいので、「乱談」は赤字で表記します。
まとめると…
- 知識の詰め込みだけでは創造性は生まれない。人間味のある会話に重きを置こう
- セレンディピティは乱読よりもワイワイガヤガヤな乱談で生まれやすい
- 乱談は素人が分かったように忖度なくやることが重要。思考の枷を取り払え!
目で考える日本人
日本人は目で考えることを重視しており、耳で考えることを軽視している傾向にあります。
専門性・博学知識を崇め奉る社会は、新しい文化や考え方を創出する力に欠けていというのが著者の持論です。
特に日本人は、欧米の先進文化を追う模倣に重点を置いたため、独創性にあまり関心が置かれませんでした。
ただし、読むことを重視する知識偏重型の取り組みは、情報集積装置であるAIの脅威を避けられません。
そうではなく、今後は人間味のある会話に重きを置く考えが必要になります。
乱読から乱談へ
新しい考えや思わぬ発見を表すセレンディピティは、思いがけない経験から生じることが多いです。
理系分野で議論が盛んな概念で、それが起こるのはもっぱら実験ですが、
文系分野では読書であると考えた著者は『乱読のセレンディピティ』※を著しました。
※知識を吸収するだけの「受け身の読書」から、様々な考え方をついばむ好事家的な「でたらめの読書」
(=乱読)には、知識を交差させることで本に書いていないことを生み出す可能性がある
という側面を重視し、そういった読み方を推奨する書物。
ただ、乱読では読書という内向きの性質から抜け出せず、独りよがりにもなり得るので、
理系分野のような思考実験(=実践)としては弱い。
そのため、4-5人以上で、筋道立たず、入り乱れ、収拾がつかない『乱談』をすることが、
セレンディピティを生み出しやすいのでは?という気づきからこの本のテーマに行きつきます。
乱談の仕方
乱談は、言いたい放題やること、その前提として無知な状態で臨むことが重要です。
専門家が集まると、忖度しあったりで予定調和に終わることが多いですが、
多様な集団の中での忖度ない議論(ときにはタブーに切り込む危うさ)は、新たな視点を見出します。
様々な議論の中で、論点が生まれては消えを繰り返しますが、面白いものは消えずに残ります。
これがセレンディピティの種になります。
これを体現する例として、ブレイン・ストーミングを引き合いに出します。
同質な専門家だけでやっても常識の枠から抜け出せず、ブレークスルーは生まれにくいです。
(個人的な経験から納得…もはや手段が目的化してますよね…)
タコつぼ化するな。
感想
前著の乱読から一歩踏み出した感じですね。
どちらも「専門バカは視野が狭くなりがち」ということを前提にしています。
乱読は「インプット手法を工夫し、アウトプットが生まれるのを待つ」ことでしたが、
乱談は「人という媒体を使い、インプット/アウトプットを絶えず繰り返す」
というより動的・有機的なものになっています。
私は前著の「乱読」については、「セレンディピティがあまりにも偶発的では?」
と技法の発展途上性を感じていたので、乱談で一段レベルアップした感があります。
さて、そうなると読書(=乱読)自体の意義ってどうなるの?ということですが、
ぶっちゃけ私は乱談は乱読あってと思いますし、両立してなんぼだと思っています。
例えば、「イスラム国について議論しよう」と言われても、無知では何も語れないと思います。
だから最低限の知識は必要。でも何が最低限って線引きはとても難しい。
比較的完璧主義者の日本人(偏見?)は、すっごくマジメに調べつくして、
他の人に引けを取らないような知識を身につけて初めて論壇に登れると感じてしまう。
私は「分かった気になること。そしてそのハードルを下げること」が重要と思います。
分かった気になれば、最低限は語れるでしょうし、その状態は先入観など薄く、議論にも柔軟性が生まれる。
そのための手法として、美味しいところどりできる乱読は適していると思います。
乱読→乱談(→乱読or乱談)…こんなプロセスが理想なのかなぁ…。
なので、駆け出しの私のブログ名『乱読のススメ』は、まだ看板を下ろさずにいこうと思います。
「知識を身につけても、それに囚わるな。思索することを忘れるな」
これが最大のメッセージでしょう。
さて、『乱読』の上位技法である『乱談』の弱点は一つです。
「私のように友だちがいない人は仲間を集められない」
ただ、これについて、著者はある答えを出しています。引用します。
あるとき、自分ひとりで、クラブ(多様性のある集団)をこしらえることはできないか、ということを考えた。
無理は承知で、自分だけのクラブはできないかと模索した。
そして、ひとつの空想を得た。
自分の頭の中に、クラブをこしらえる。そのメンバーが、勝手なことをしゃべる。
すると、ときにおもしろいことが出てくることがありうるのではないか。
(p175-176 ()内、太字は引用者)
ほう…つまり…
仙水ですね…。「暗黒天使」とかいう厨二な通名はどこ行ったんだ…。
あ、無理です。友達つくろ…。
読書論はショペンハウアーを引き合いに出して語るのも面白そうですが、
紙面が足らないので、いずれ該書をレビューしたときにでも…。
本日はここまでです。
お読みいただきありがとうございました。
ではではまた~。